賢治先生の家(2017年)〈9907〉

9月21日は、37歳で旅たった宮沢賢治の命日です。花巻農業高等学校は、宮沢賢治が教諭として勤務した農学校の、後身に当たる学校です。校内には、宮沢家の別荘として建てられた、「賢治先生の家」がありますが、最初からここに建てられたのではなく、偶然、ここに移築されたのでした。

賢治先生の家(2017年)

賢治先生の家は、ひとを招く住まい。暖かさを感じながらも、何ともモダンな住まいです。隅に寄せた窓が美しいです。この記事の画像は全て、当麻喜明さんの撮影です(2017.09.21)


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「賢治先生の家」は、この花巻農業高等学校の校内にではなく、

ここから離れた花巻市内の、北上川や畑を見下ろす景色のよい高台に、

宮沢家の別荘として、1904年(明治37年)に建てられました。

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屋根の架け方がユニークで、リズムを感じます。

屋根の大きさや高さに変化を持たせたり、

2階と1階の屋根とを一体にしたり。

左側の屋根が低く、壁が黒く見えている所が、住まいの玄関です。

右側の屋根が少し高い部屋が、教室になっています。

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その教室の入口には、賢治の所在を伝える、掲示板が掛けられています。

掲示板には、「下ノ 畑ニ 居リマス 賢治」と、

いつも、自分の居場所が書いてありました。

賢治の、おもてなしの心を感じます。

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この掲示板の文字は、消えかかってくると、現在の生徒さんが、

掃除のときに、書き直してくれているそうです。

そんな「いつでもひとを招くことができる住まい」は、

私が住まいを設計するときに、大切にしていることです。

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「下ノ畑」とは、こんな畑でした。

賢治は、教師として教えることだけでなく、

自らも、農作業を実践するすることを大切にしていました。

人々が苦しんでいる現場に赴き、人々の苦しみを体験するためでしょう。

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賢治は、1921年(大正10年)11月から、稗貫農学校教師でした。

1926年(大正15年)3月に、稗貫農学校を退職し、

4月から、この「賢治先生の家」で自給自足の生活を始めました。

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この教室は、賢治がリフォームしたのでしょう。

農学校卒業生や、周囲の農村青年たちを集めて、

レコードの鑑賞会や、子ども向けの童話の朗読会を始めたそうです。

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火鉢を囲んで、木の丸椅子がおいてあります。

こうやって、お話をしていたんでしょうか。

オルガンは賢治が、実際に弾いていたそうです。

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農業や肥料の講習、レコードコンサートや農民楽団の練習、

自作演劇の稽古などもしていました。

「芸術は、厳しい暮らしの中にこそ必要」

という信条が、賢治にありました。

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賢治、理想の学校でした。

賢治、自立の場所でした。

「農民芸術概論綱要」は、ここで書かれました。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

『農民芸術概論綱要』宮沢賢治

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左側が教室です。右側が和室と、その上に書斎があります。

和室と書斎の隅部は2方向に窓なっていて、いい眺めだったでしょう。

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和室は直接外に面しているのではなく、和室の周りを縁側で囲んでいます。

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和室では、妹トシが療養していた時期がありました。

2階の書斎にいる賢治が、トシの看病をしていました。

トシが旅たったときに、賢治が書いた「永訣の朝」の一節です。

『ああ あのとざされた病室の

くらいびゃうぶやかやのなかに

やさしくあをじろく燃えてゐる

わたくしのけなげないもうとよ』

 

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トシの居る和室、賢治の居る書斎の窓からは、

こんな風景が見えていました。

美しい北上川や山並みと同じように、

畑での農作業をしている人たちからも、癒されていたのでしょう。

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夜は夜で、月の灯りが室内に優しかったでしょう。

この景色の眺めるために、隅に寄せた大きな窓。

私は窓を設計するとき、

外観や室内から、「窓そのものが美しい」か検討しますが、

「窓から見える景色」こそが、その窓の本質なのです。

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賢治が旅たった後、この宮沢家の別荘は人手に渡り、

現在の地に移築されました。

一方、手狭になった農学校も、現在の地に移ることになりました。


その農学校の移転先の敷地内に、偶然、賢治先生の家があったのです。

「奇跡」に近いことだった、のかも知れません。


岩手県立花巻農業高等学校のご厚意により、

見学させてもらうことができるとのことです。

「賢治先生の家」いつか、訪ねてみたいです。