「障害」は、その人にあるのではなく、環境にあり、変えられるもの
〈9631〉
https://anity.ootaki.info/9631/
「心のバリアフリー」という、とても耳障りのいい言葉がありますが、よくよく考えると、この「心のバリアフリー」とは何なのでしょうか。私も「こうなのだ!」という、確たる答えがある訳ではありませんが、この記事を書きながら、自分の考えを整理していきたいと思います。思えば、「心のバリアフリー」を初めて意識したのは、Oさんのお宅を訪ねた時でした。
2018年の夏休み旅行は、長野県の野尻湖を訪ねました。早朝、野尻湖の湖畔を散策しました。今回の旅行で、常に頭から離れなかったのは、「心のバリアフリー」ってなんだろうということでした(2018.08.27)
2018.08.27
このOさんのお宅は、1995年に竣工しました。
私が初めて造らせていただいた、バリアフリー住宅です。
私が設計をしたのだ、というと正確ではなく、
Oさんとともに、住まいの問題を解決していきました。
例えば玄関室は狭いのですが、上がり框には段差がなく、
リビングとの引き戸も、開口幅を広くしてあります。
Oさんのお宅に、久しぶりにお伺いした時のことです。
リビングで談笑していると、
玄関室の方から「ピンポーン」と、チャイムの音が鳴りました。
Oさんが玄関室に出向くと、郵便局の方でした。
荷物だとわかると、Oさんは一旦リビングに戻り、ハンコを取り出し、
また玄関室へ行って、荷物を受け取りました。
『ごめんなさいね』と、Oさんはすぐにリビングに戻ってきました。
この一連の流れの中では、Oさんが車いすユーザーではなく、
健常者だとしても、全く同じはずでした。
取り立てる程でもない場面ですが、その時に気づいたのです。
「あっ、これがバリアフリーなんだ」と。
では反対に、上がり框に段差のある、我が家の様な、
「バリアフリーではない」玄関室だったとしたら、
Oさんは、どうだったのでしょうか。
来客を出迎える時を想像してみます。
• 「上がり框の段差がある」 → 土間に下りられず、玄関ドアの鍵を開けることができない。
• 「玄関と繋がる廊下が狭い」 → 玄関室に行くために、何回も切り返しをしなければならない。
結果、来客を少しの時間でも、待たせることになってしまい、
きっとOさんは、来客に対して申し訳なく、思うことでしょう。
「バリアフリー」な玄関室では、車いすユーザーのOさんは、
健常者と全く同じく、振る舞うことができます。
対して、「バリアフリーではない」玄関室では、Oさんは、健常者と同じ様には振る舞えず、Oさんは、「障害者」になってしまいます。
「障害者」と「健常者」とを分かつもの、
つまり、私はこう考えました。
「障害」の定義は、その人にあるのではなく、
その人の周りの環境によって、決定されるものでしかない。
そして、それは『変えられる』ものである。
「障害」は、その人にあるのではなく、環境にあり、
そしてそれは、変えられるものであること。
Oさんのお宅に遊びに行った時の一場面、この気づきの中に、
「心のバリアフリー」を理解するヒントが、隠されているようでした。
ですが一方で、さらなる疑問も湧いてきました。
「心のバリアフリー」を理解しようと思う私は、
自身を「障害者ではなく健常者」であると、考えているようです。
「そもそも、そういう私自身は健常者なのだろうか... 」
この自問に対する答えも、探してみようと考えました。
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