満開の桜の下で、「老いと向かいあう住まい」を思う
〈9717〉
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遊歩道に覆いかぶさる、満開の桜の下を歩いていて、ふとわかったことがあるのです。私自身が造った住まい、他者が造った住まい。今まで私は、たくさんの住まいを見てきて、私が住まいの良し悪しを判断している、第一の基準がわかったのです。それは、「老いや、やがて訪れる死に対して、その住まいが向きあっているか」ということです。
いつもより1時間早く、3時に起きました。記事をひとつ書き、窓の外に目をやると、気持ちのいい青空。遊歩道の満開の桜を見にいくことにしたのです。柔らかな朝日が、桜の淡い桃色を照明してくれました(2018.03.30)
2018.03.30
『散る桜 残る桜も 散る桜』、良寛の辞世の句です。桜は咲いた瞬間から、やがて散りゆく運命を背負っているように、私は生まれた瞬間から、老いることや死ぬことが決まっていました。
住まいを建てるということは、長い人生でたった一度のことなので、もっとも輝いているといわれる、30代、40代のひとときだけに、焦点をあてているような住まいに、してはいけないと思うのです。
住まい。私の日々の暮らしを、包み込んでくれている住まいには、私の老いや、やがて訪れる死までも、優しく受け止めてほしいのです。
満開の桜のような人生の一番いい時にこそ、私たちの先に待ち構えている、老いや死について考える、最適な時にも思えてくるのです。
老いや、やがて訪れる死を受け止めてくれる住まいは、きっと、居心地の良さと、深いところで繋がっているはずだと思うのです。
随分と昔から、生まれる前からではと思うくらいの昔から、ずっと桜を見てきた気がするのです。みなさんもそう感じませんか。
もしかすると、私たちの遺伝子の中には、桜を見上げたことまで、記録されているのかもしれません。
それと同様に、「居心地のよい住まいで暮らし続けたい」とも、記録されているかもしれないと、私は思うのです。
詩人、茨木のり子の『さくら』という詩が好きです。
ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらを見るのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と
『谷川俊太郎選 茨木のり子詩集』岩波文庫 2014
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