好きだった写真が嫌いになり、また好きになったこと
〈9649〉
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中学生の頃の漫画雑誌の連載に、写真・カメラがテーマのものがあって、毎週楽しみにしていました。主人公の若い写真家の写真を、師匠であるベテランの写真家が評している場面です。『君の写真は何でも、フレームに収めすぎている。写真は足し算ではない』『表現に不要なものを、フレームから取り除きなさい。写真は引き算なのだから... 』。この数コマの場面展開を、私は、ほとんど実写の映像のように、いえ、主人公ではなく私自身が、実際に評されたかのように記憶しているのです。
駅とか電車とか夕暮れっていいですよね。 何事も偶然ではなくて、必然のように感じられるので(2018.07.09)
2018.07.09
中学生から高校生にかけて、カメラが大好きで、友人に先駆けて、
一眼レフカメラを手にした時、撮影する対象は「友人」でした。
建築の道を志すようになり、大滝建築事務所を設立してからも、
写真から離れることはなく、撮影対象は「建築」となりました。
ですが、様子が変わってきました。
建築の仕事や研究に必要な撮影はするものの、
それ以上の「楽しみ」としての写真は、撮らなくなってしまいました。
はっきりとした、理由がありました。それは、
あれだけ私を感動させた、『写真は引き算である』に、
私は、疑問を感じるようになったからでした。
というのも写真は、「都合のいいこと」だけを切り取ることができ、
「都合の悪いこと」をフレームに外にして、なかったことにできる。
いわば、『嘘をつくこと』ができるのです。
そんな「作為性」を、その頃の私は、許せなくなっていたからでした。
住まいづくりの仕事が順調になってくると、色々な現場では、
私の書いた図面を基に、建物ができあがっていきました。
実物の建物は、都合のいい所だけを、切り取る訳にはいきません。
それ以前に、社会に出てみて、コミュニケーションにも悩みました。
仕事を受注する際、自分の「都合の悪いこと」を正直に言ってしまう私は、
「都合の悪いこと」を隠しきれるライバルに、連戦連敗でした。
そんな「歯がゆさ」の連続が、写真までも嫌いにさせたのでした。
その時、自分が正しいのか、間違っているのかわからなくなりました。
ですが、10年程前に友人に誘われ、狭山丘陵の散策を始めてみると、
虫や野鳥、野草などが撮影対象になり、また、写真が楽しくなりました。
ですが、2011年3月、春の訪れを楽しみにしていた矢先に、
「東日本大震災」に見舞われ、これだけのことが起こったのに、
まるで何もなかったかのような狭山丘陵に、
出向くことが段々と少なくなっていきました。
また、写真から離れてしまいました。
そして今年(2018年)になると、柔軟に写真と向かい合えることに、
気づきました。また、写真をとりたくなっていたのです。
今月7月から、地元の写真サークルに入ることになりました。
それは、世界ぜんたいの問題を、私の問題のように考えたところで、
何ひとつ変わらないことに気づいたのでした。というよりも、
そもそも、フレームの外は無限に広がり、
そこにとらわれたら、際限がないことに気づいたのでした。
先週末、カメラの仕事にしている人と、お会いする機会がありました。
「都合の悪いこと」をフレームに外にできるから、写真を嫌いになった、
という話をしました。この人なら、わかってもらえると思ったからでした。
『でも、写っているものは真実ですよ』
彼女からのシンプルな返答に、私は感動しました。
なるほど、写真に写ったものは、真実のことなのだ。
フレームの中の濃縮された真実こそ、大切なことなのだ。
なるほど、撮影した写真の「真実」を保証することを大切にしよう。
それから、もうひとつ。自分にできることには限界があるだろうが、
それでも、撮影するに値する、美しい撮影対象を作りだしていこう。
これは、引き算していく中でこそ、実現可能のことに思えたのでした。
引き算していく中で、自分が実現可能なことを発見していく。
これは写真に限らず、生きていく様々な場面の中で、
私が大切にしたいことを、縁があって出会った人たちに表現する、
その全てに当てはまるようにも、思えたのでした。
『君の写真は何でも、フレームに収めすぎている。写真は足し算ではない』
『表現に不要なものを、フレームから取り除きなさい』
『写真は引き算なのだから... 』
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