障害は人にあるのではなく、環境にあり変えられるもの
〈9624〉
https://anity.ootaki.info/9624/
「心のバリアフリー」という、とても耳障りのいい言葉がありますが、よくよく考えると、この「心のバリアフリー」とは何なのでしょうか。私も「こうなのだ!」という、確たる答えがある訳ではありませんが、自分の考えを整理していきたいと思います。思えば、「心のバリアフリー」を初めて意識したのは、Oさんのお宅を訪ねた時でした。
バリアフリーキッチンで調理するOさん。Oさんのお住まいは、アクセシブルです( 2018.09.11)
2018.09.11
車いすユーザーのOさんのお宅は、1995年に竣工しました。私が初めて造らせていただいた、バリアフリー住宅です。
私が設計施工したのではなく、住まいてOさんとともに、車いすで生活のする上での問題を、解決していきました。
例えば、玄関室は狭いのですが、上がり框に段差はなくしたり、玄関やリビングの引き戸の幅を広くして、バリアフリーにしました。
Oさんのお宅に、久しぶりにお伺いした時のことです。リビングで談笑していると、玄関室の方から「ピンポーン」と、チャイムの音が鳴りました。
Oさんが玄関室に出向くと、郵便局の方でした。
荷物だとわかると、Oさんは一旦リビングに戻り、ハンコを取り出し、また玄関へ行って、荷物を受け取りました。『ごめんなさいね』と、Oさんはすぐに、リビングに戻ってきました。
この一連の流れの中では、Oさんが車いすユーザーではなく、健常者だとしても、全く同じはずでした。そこには、「障害者」と「健常者」とを、分かつものは何もありませんでした。
取り立てる程でもない場面ですが、その時に気づいたのです。
「あっ、これがバリアフリー住宅なのだ」と。
では反対に、上がり框に段差のある、一般的な我が家の様な、玄関室だったとしたら、どうだったのだろうかと、来客を出迎える時を想像してみました。
「上がり框の段差がある」 → 土間に下りられず、玄関ドアの鍵を開けることができない。
「玄関と繋がる廊下が狭い」 → 玄関室に行くために、何回も切り返しをしなければならない。
結果、来客を少しの時間でも、待たせることになってしまい、きっとOさんは、来客に対して申し訳なく、思うことでしょう。
「バリアフリー」な玄関室では、車いすユーザーのOさんは、健常者と全く同じく、振る舞うことができます。
対して、「バリアフリーではない」玄関室では、Oさんは、健常者と同じ様には振る舞えず、Oさんは、「障害者」になってしまいます。
「障害者」と「健常者」とを分かつもの、私はこう考えました。
「障害」の定義は、その人にあるのではなく、
その人の周りの環境によって、決定されるものでしかない。
そして、それは『変えられる』ものである。
「障害」は、その人にあるのではなく、環境にあり、そしてそれは、変えられるものであることなのだ。
Oさんのお宅に遊びに行った時の一場面、この気づきの中に、「心のバリアフリー」を理解するヒントが、隠されている様でした。
ですが一方で、さらなる疑問も湧いてきました。
「心のバリアフリー」を理解しようと思う私は、自分を「障害者ではなく健常者」であると、考えている様です。
「そもそも、そういう私自身は健常者なのだろうか... 」
そして気づきました。「私も障害を持っている」と。
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